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【聖書】ローマ6章

ローマの信徒への手紙6章・・・・・・罪の支払う報酬
「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです」6:23

くぅ〜ママのちょっと一言
クリスチャンとはイエス・キリストと霊的に一体とされた者であり、罪から解放され、新しい命に生きる存在です。そのことをパウロは3つのたとえから説明します。1つはバプテスマのたとえから、2つ目は奴隷のたとえから、3つ目は婚姻のたとえから語られています。(3つ目は7章に書かれています)バプテスマを受けて罪の支配から自由になるということは、こんなふうに想像すると分かりやすいかもしれません。罪の操り人形だったのが、バプテスマを受けることで、その糸が全部切れて自由な身になります。そこは神さまが支配される場所なのです。そこでは神様が喜ばれる生き方が、私の喜びとなります。神様の支配は罪の支配のようにあやつり人形のように糸でつながれません。自由なのです。自由だからまた、以前のように罪を犯してしまうときもあります。でも神様の前に悔い改める自由も与えられています。罪の糸で縛られていないということは、永遠の命を頂いているということ。天国に行く時に、罪の糸で引っ張られて行けない…なんてこともないのかもしれません。

聖書要約
グッド罪に死に、キリストに生きる
「罪の増したところには、恵はなお一層満ち溢れるなら、恵みを多く受けるために罪の中に留まり続ける方がよいのでしょうか。そんなことは決してありません。クリスチャンはバプテスマを受けてキリストイエスとつながった時にあなた方の中にある罪の支配力は無効になってしまったのです。あなた方の古い邪悪な欲望はキリスト共に十字架につけられました。そしてイエスの復活されたのと同じように私たちも新しい命を頂いたのです。バプテスマは罪の中にいる自分がイエスとともに死に、新しい命を頂いて、キリストイエスと結ばれて、神に対面して生きるということです。だから、自分の身体を罪から離れさせて、良いことをする為の道具として神にささげなさい。バプテスマを受けたものは律法の支配ではなく、恵の下にいるのです。
グッド義の奴隷
では恵の下にいるなら、罪を犯していいのでしょうか。決してそうではありません。罪の奴隷として生きるか、神の奴隷として生きるかどちらかなのです。奴隷であるか自由の身であるかではなく、何に対して奴隷なのか(何に従うのか)ということが問題なのです。あなた方はかつては罪の奴隷でしたが、今は罪から解放されて、神の教えに心から従う者になりました。そして罪に従う奴隷は死にいたり、神に従順に仕えて生きる事は義にいたるのです。「義に対して自由な時(罪の支配下にいる時)はあなたはどのような実を結んだでしょうか。恥ずかしいと思うような実しか結ばなかったのではないでしょうか。その行き着くところは死です。一方、神の奴隷として生きるとき私たちは聖なる実を結ぶのことができ、その行き着くところは永遠の命です。罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。

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【聖書】ローマ5章

ローマの信徒への手紙5章・・・・・・罪と救い
「しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません」5:15

くぅ〜ママのちょっと一言
パウロは信仰義認の結果、与えられる神との間の平和と、神の栄光にあずかる希望について述べています。希望そのものだけではなく、苦難な状態をも希望なのだといいます。苦難は忍耐を生み出すと書かれています。忍耐とはジーっと歯を食いしばり、不動でがんばっているイメージを描きやすいのですが、そうではなく、神さまが与えてくださる恵の約束を信じて、辛さを乗り越えて積極的に生きていく姿勢です。そのことが素晴らしい人格を形成していくことになります。それがまた希望につながっていくというのです
後半はアダムとキリストが対比されて語られています。アダム(罪、死、裁き、有罪、不従順)キリスト(義、永遠の命、恵、無罪、従順)キリストは第2のアダムと言われますが、第1のアダムは人類に罪と永遠の死をもたらしましたが、第2のアダムは人類に恵と永遠の命を与えてくださいました。このことを、パウロは表現を変えながら私たちに繰り返し訴えます。私たちを友と呼んでくださるキリストの愛の中にいることを感じながら、軽い足取りの日も、一歩踏み出すのがやっとというような重い足取りの日も、神さまが私の人生を握っておられることを信じて、前進していきましょう。

聖書要約
グッド信仰によって義とされて
信仰によって義と認められた私たちは主イエス・キリストによって神との間に平和を得ています。そればかりか神の栄光にあずかる希望を誇りとすることができます。希望ばかりではありません。苦難をも誇りとすることができます。なぜなら苦難な状態であっても、信仰によって忍耐しながら前向きに生きていくことによって、練られた品性、豊かな人格へと自分自身を高めてくれる。その練られた品性に裏づけされた希望を頂くことが出来るのです。ですからどんなことが起ろうとも、失望せず落胆することはありません。なぜならそのように生きている者には、神の愛(聖霊)があふれるばかりにふりそそがれているからです。
キリストは私たちがまだ弱く、罪の中にいた時に私のために死んでくださり、神の愛を示してくださいました。罪ある私たちを無罪と宣言してくださったのです。罪の中にいた時にもこんなに素晴らしいことを私たちに与えて下さったのですから、無罪と宣言してくださった今はもっと良い物を与えて下さいます。私たちに救いの道をあたえて下さり、キリストは私たちを友と呼んで下さるのです。
グッドアダムとキリスト
一人の人・アダムの罪は人類に罪と死をもたらしました。モーセに律法が与えられるまでは、罪は罪とみとめられなかったのですが、死は全ての人を支配しました。しかし一人の人、イエス・キリストの十字架の死は人類全てに義と救いをもたらしました。アダムの一つの違反によって人類は死に支配されるようになりましたが、キリストの義によって人類はいのちを与えられたのです。
アダムとキリストは人類の罪と義をもたらしたのですが、キリストの義は罪とは比較にならないほど優勢なのです。理由として、一つの罪で有罪判決を受けたのに、神の恵みは多くの罪を全て無罪にすることができます。
アダムから律法が与えられたモーセまでにも罪はありました。しかし律法が与えられることによって益々罪を自覚されることが増えたのです。でも大丈夫!罪が増せば増すほど、恵みも増します。罪によって死が支配していましたが、イエスキリストの圧倒的な恵と力によって、私たちは永遠の命を頂くことができるのです。

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【聖書】ローマ4章

ローマの信徒への手紙4章・・・・・・アブラハムの信仰
「アブラハムは神を信じた。それが、神の義と認められた」4:3

くぅ〜ママのちょっと一言
人が義とされるのは律法を守ることによってではなく、イエス キリストの十字架と復活を信じる信仰によるものであるという「信仰義認」の考えを表したパウロは4章でアブラハムの信仰について語ります。アブラハムに神が約束されたことは、まったく不可能と思われるようなことでした。しかしアブラハムが信じたので神はアブラハムを「よし」として祝福されました。現代の私たちにとっては「イエスの処女降誕など理解できない。十字架と復活など意味の分からない」ことかもしれませんが、それを「ただ信じなさい。」ということなのだと思うのです。見えないものを信じること、納得できないことを信じるからこそ信仰と言えるかもしれません。信じて生きるも人生、信じずに生きるのも人生。選択をそれぞれ一人ひとりに任されているのです。

聖書要約
グッドアブラハムの模範
信仰によって救われるという問題について、私たちの始祖アブラハムの信仰を通して考えてみましょう。彼が神に受け入れられたのは良いことをしたからでしょうか。もしそうなら、彼は自分のことを誇ったでしょう。しかし神の側から見ると、アブラハムには誇れる理由などありません。アブラハムは神を信じたから、神が彼を義と認めれらたのです。働いた時に得るのは報酬ですが、働かずに得るのは恵みです。ダビデも救われる値打ちのない罪人が罪のない者とされる幸いについて「罪をすっかり消し去られた者、主の罪を数えられない者は何と幸いでしょう」と語っています。ではこの幸いは割礼をうけた者に与えられるのでしょうか。割礼のない者にも与えられるのでしょうか。アブラハムは割礼を受ける前に信仰によって義とされました。義とされた印として割礼を受けたのです。彼は割礼を受けずに信じた者にとっても、割礼を受けてアブラハムに従う者にとっても私たちの父なのです。
グッド信仰による実現される約束
神はアブラハムに子孫に世界を継がせると約束されました。神の祝福の約束を受け継ぐのは律法を守る者ではなく、神を信じることによって義と認められた者です。律法は神の怒りを招くものです。すなわち律法によって人間の罪が明らかにされるだけです。神がアブラハムに与えられた祝福の約束はイエスキリストを信じる全ての者に与えられます。アブラハムは死者を復活させる神を信じました。神はあなたを多くの国民の父とすると定められました。しかしその時彼は100歳、妻のサラも子どもを宿せる体ではありませんでした、アブラハムは希望するすべもないような状態でしたが、なお神の言葉に望みをおき続けました。アブラハムの信仰は弱まることがなく、益々信仰は強まりました。そのこのように神の約束を信じ抜いたから、彼は義と認められたのです。それは私たちにも当てはめることができます。主イエスを死者の中から復活させられた方を信じることで私たちも義とされるのです。イエスは私たちの罪のために十字架にお架かりになり、私たちの罪のために死に渡されました。そして私たちが義とされるために復活されたのです。

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【聖書】ローマ3章

ローマの信徒への手紙3章・・・・・・信仰による義
「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです」3:28

くぅ〜ママのちょっと一言
パウロは1章2章で偶像礼拝の罪と偽善の罪を鋭く指摘してきました。3章では神の真実と人間の罪から、律法では救われる事はないことを、ディアトリベと言われる自問自答の話法で力強く説明します。何度もディアトリベが使われています。
この章の21節は旧約聖書と新約聖書をつなぐ連結の部分です。「人間がどんなに努力しても救われる事も、義とされることもない」そんな私たちがイエスキリストを信じる信仰によって救われるという大逆転の展開を神が与えてくださったのです。私たちが義とされるのは、神から一方的に与えられることで、そう考えると誰一人誇れる人はいません。行いによって得られる義ではなく、信仰による義なのです。

聖書要約
では「ユダヤ人の優れた点は何でしょう、割礼に利点はあるでしょうか」。もちろんあります。まず神はユダヤ人に神の言葉を託されたのですから。では「彼らの中に不誠実な者がいたら、神の誠実が無になるのですか」「いいえ、どんなに人間が罪を犯しても罪を告白した時正しいものとされ、断裁されることはありません」人間の不誠実がどんなに大きくてもそれを覆うほど神の人間に対する誠実は大きいのです。人間が悪いことをしても、神は真実に人間を愛してくださるというのです。では「人間が不義を犯せば犯すほど、神の義の大きさが明らかになるのですか。怒りを発する神は正しくないのですか」「いいえ、善が生じる為に悪をしようというのは間違っています」すなわち神の愛を知ろうとして悪を犯すのは間違っているということです。
グッド正しい者は一人もいない
ユダヤ人もギリシャ人も人類は皆罪人です。旧約聖書にも「正しい者は一人もいない。…」と書かれています。彼らは神の律法を守る責任があるのに守らないので、神の裁きが彼らに重くのしかかっています。彼らだけでなく、全世界が全能の神の前に有罪の宣告を受けているのです。「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」と。
グッド信仰による義
しかし今や、神は私たちの罪が赦され、天国に行く道を示して下さいました。それは善人になるとか、律法を守るために努力することではありません。実はその道は旧約聖書にすでに書かれていることです。すなわち神は「あなた方がイエス・キリストを信じるなら、わたしはあなたたちを受け入れ、罪のない者とする」と言われました。全ての人は罪を犯したので、神に近づくことはできなくなっていましたが、ただ、キリスト・イエスの十字架の贖い(私たちの罪の身代わりとして十字架に架かられた)を通して、私たちは無代価で神に近付ける者(義)とされるのです。では私たちが義とされ、救われるために何か誇れるようなことをしたのでしょうか。いいえ、私たちは自分の善行によって無罪とされるのではありません。それはキリストがしてくださったことで、私たちはそのキリストを信じる信仰によってのみ罪が赦されるのです。神はユダヤ人にも、それ以外の人にも、割礼のある人にも、全ての人を信仰によって義として下さるのです。では信仰が大切で、律法は不必要なものなのでしょうか。決してそうではありません。律法は罪の意識を生じさせてくれるものであり、イエスキリストの信仰へと導くものです。そうであれば信仰することによって律法の役割を完成させることになるのです。

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【聖書】ローマ2章

ローマの信徒への手紙2章・・・・・・義とされるとは
「律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです」2:13

くぅ〜ママのちょっと一言
パウロは1章で人類の罪について鋭く指摘したのですが、2章では神の選民であるユダヤ人の心に潜む偽善の罪をえぐり出します。そして神の裁きは公平であり、モーセの律法を知っているだけでは義とされないことを明らかにします。律法を知っていることが大事なのではなく、それに従って生きているか否かが重要なのですと。
物事の本質を忘れて形骸化したものを大切にする生き方は本当に悲しいことです。律法を与えられた選民ユダヤ人のそのような罪が指摘されました。ユダヤ人だけではなく、私たちクリスチャンもそのような間違いに陥らないようにしなければなりません。日曜日の礼拝を一生懸命守ったとしても、主を求める心が伴っていなければどうでしょう。お祈りでも然りです。奉仕も献金もその心が問われます。傲慢な心を捨て、へりくだって、いつも心から主に仕えたいと思います。

聖書要約
グッド神の正しい裁き
人類の罪をこのように(1章)列挙すると、あなたは「なんて、ひどいことを…」と言うでしょう。しかしあなただって、そのような罪がないとは言えません。「そんな悪いことをする人は罰を受けるのは当然だ」というかもしれませんが、あなただって同じことをしています。そのような人たちを神は正義を持って罰せられます。あなたが裁かれていないのは、神の憐れみであり、それはあなたを悔い改めに導くためのものです。ところがあなたは罪をドンンドン積み上げています。神の裁きが下される怒りの日に神はそれぞれの行いによって報いをお与えになるのです。忍耐強く神の喜ばれることを行い、神が与えようとしておられる栄光と栄誉と永遠の命を求める者にはそれが与えられるのです。けれど、神の真理に逆らい、不正な道を歩む者には恐ろしい罰が下ります。罪を犯し続ける者にはユダヤ人にも外国人にも同じように苦しみと悩みが降りかかります。反対に神に従う者にはだれであっても神からの栄光と平安が与えられます。神は全ての人を公平に扱われるのです。神はどんな罪も罰せられます。外国人で律法を知らないで罪を犯しても律法とは関係なく滅びます。律法を知っている者が罪を犯したら、律法によって裁かれます。律法を聞く者が正しいのではなく、律法を行う者が正しいのです。律法を知らない外国人も律法を自然と行うことができます。神が人の心に律法を記されたのです。ユダヤ人は神の掟を知っています。どちらにしても成すべきことを知っていながら実行しない人は救われないのです。すべての人の心の奥に潜む思いを、イエス・キリストが裁かれる日に明らかにされます。
グッドユダヤ人と律法
ユダヤ人は選ばれた民と誇っています。神が何を求めておられるか知っているので、自分たちは人を導くことができると思い、実際そうしています。しかし律法の教えを人に説きながら、自分はそれに従っていません。盗むなと説きながら盗み、姦淫するなと教えながら姦淫し、偶像を忌み嫌いながら、神殿を荒らしています。「あなたたちのしたことで、世の人々は神をけなす」と旧約聖書に書いてある通りです。割礼をしても律法を守らなければ、何の意味もありません。神と正しい関係が持ててこそ、真のユダヤ人であり、割礼をうけたかどうかではなく、心と思いの全てが変えられた人こそ神から褒めて頂けるのです。

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【聖書】ローマ1章

ローマの信徒への手紙1章・・・・・・神の力=デユミナス
「私は福音を恥としません」1:16

くぅ〜ママのちょっと一言
この手紙はパウロが書いたものである事はほぼ間違いありません。書いた場所はおそらくコリント。ローマに行くのを切望していたパウロですが、自分の思いとは違って、献金を携えてエルサレムに赴くことになりました。そんな中、ローマに行く信徒がいることを聞き、手紙を託したのが、この書簡とのこと。ローマにはキリスト教の幾つかのグループが存在していたようで、この手紙は回状用の公的なものとして書かれているとのことです。
私は福音を恥としない」とパウロは言います。なぜ「恥としない」と断言できるようになったのか。それは16節の「神の力」を体得したからということです。信じる者に、確かに働いてくださる神の力。この「力」はギリシャ語のデユミナスが使われており、ダイナマイトの語源です。爆発的な神の力で生きることをパウロは見出したのです。
本論ではパウロは「神の義」を明らかにする為に「罪」について述べるのですが、その前にまず「神の怒り」について知らせます。主の怒りの一番の理由は「神を知りながら、神をあがめることも感謝することもせず…」という罪です。これが罪の根源であり、中でも決定的な罪である偶像礼拝を指摘します。そして神との関係が途切れた人類が犯す罪が列挙されます。同性愛のことを始め、21の罪が書かれています。それらの罪によって人間は神の怒りによっ滅ぼされても仕方のない存在であるとパウロは言います。

聖書要約
グッド挨拶
キリスト・イエスの僕、伝道者として選ばれ、福音を伝えるために遣わされた私、パウロからの手紙です。福音とはずっと以前から神が預言者を通して聖書の中で約束して下さっていた、御子イエス・キリストに関することです。この方は人の子としてダビデの家系に生まれましたが、死んだ後、復活されることによって、神の聖い性質を持たれた神の御子であることが証明されました。キリストをとおして今や、神の恵みがユダヤ人だけではなく、世界の人々にあふれています。神に愛されているローマの人々にイエス・キリストからの恵みと平和があるように。
グッドローマ訪問の願い
あなた方の信仰が世界中に知れ渡っていることを聞き、主に感謝します。私は御子に関する良い知らせを人々に伝えながら、主に仕える者です。主が許して下さって、あなた方のところに行ける機会があるようにと願っています。それはあなた方と信仰を分かち合いたいということと、あなた方の教会が主にあって、成長するように役立ちたいと思っているからです。これまで何度もあなた方の所に行こうとしましたが、妨害にあって、行くことができませんでした。私はあらゆる人に福音を伝えると言う責任があります。ローマのみなさんにも是非福音を伝えたいのです。
グッド福音の力
私は福音を恥としません。福音は信じる人がだれでも天国に導く神の力となるからです。ユダヤ人だけでなく、ギリシャ人も信じる人ならだれでもです。
グッド人類の罪
しかし神は真理を妨げる人々に怒りを発せられます。彼らは神のお造りになったものを見ることによって、神の創造と力を知ることができたはずです。神を知りながら、感謝せず、神の御心から遠く離れた愚かなことばかりをし、また滅びるような人間や、鳥や獣、蛇を木や石で作り、それを神としたのです。だから神は彼らが、性的な欲望のまま、したい放題にさせられました。その結果当然その報いを受けているのです。彼らがこのように神を捨てたので、神は考えられる限りの悪事をさせておかれました。彼らの生活は、憎しみ、ねたみ、殺意、争い、偽り、陰口に満ちています。彼らは神を憎み、横柄で、高慢で、大うそつきで、親に反応し、わざと物ごとを曲解し、平気で約束を破り、情け知らずの、不親切な者となりました。このような行為は死にあたいするという神の定めを知りながら、自分だけでなく、他人も引きずり込んでいるのです。

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【聖書】使徒言行録28章

使徒言行録28章・・・・・・主の言葉をうけいれる
「ある者はパウロの言葉を受け入れたが、他の者は信じようとはしなかった。」28:24

くぅ〜ママのちょっと一言
パウロはどこに行っても、まずユダヤ人に福音を語りました。しかしユダヤ人に宣べ伝えても少数の人にしか受け入れてもらえないことがほとんどでした。ローマでも、パウロはまずユダヤ人に、「神が旧約の預言者たちに約束した希望の内容は、ナザレ人イエスキリストにおいて実現したのだ」と福音を語りましたが、やはり結果は同じでした。「このことはすでに旧約聖書に預言してある事であり、救いは異邦人に向けられた」と、パウロは語ります。
しかし、当時はローマに伝えられたということは、全世界に伝えられたに等しいことでしたし、実際、そこからユダヤ人以外の全世界の人々にキリスト教は広まりました。パウロはローマでの2年の中でフィリピ、エペソ、コロサイ、ピレモンへの手紙も書いたと言われています。今でも未開の山奥や、文字を持たない少数の民族の間でも文字を表すことから聖書の翻訳の作業をしている人たちがいます。主の約束は「あなた方の上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」使徒言行録(1:8)事なのです。パウロの伝道の経験から教えられる事は、人間的に見ると最悪を思われるようなところにも主が働いて下さるということです。信仰生活においても、思い通りにならない時、打ちのめされるような時、不安の中にいる時には、そのことを通して主が恵みを用意して下さっていることを確信して感謝!もちろん順調な時には、さらに感謝して信仰生活を送りたいと思います。

聖書要約
グッドマルタ島で
一同が上陸した島はマルタ島と呼ばれている島だと言うことが分かりました。原住民はこれら276名の遭難者を火をたいて助けてくれました。その焚き火に枯れ枝をくべようとしたパウロの腕に、火の中から出てきたまむしが噛み付いたのです。人々は、「パウロが、正義の女神に裁かれるような悪い人だったのか」と成り行きを見守りますが、パウロの身に何事も起らないのを見て、逆に「この人は神さまだ」と言います。パウロは島の長官のところに連れて行かれ、歓迎を受けます。そこでも長官の父親の病気を癒します。そのほかにも数々の島民を癒しました。冬の3ヵ月の間、そこで滞在し、早春に船出したのですが、島民は船出に必要なものを調達しれくれました。
グッドローマ到着
3カ月後ディオスクロイを旗印にしたアレキサンドリアの舟(修理した舟か、立ち寄った舟かは分からないそうです)でローマに向いました。南風にのってプテオリ(ローマの180KM南方)の港に着くと、ローマにいるクリスチャンが会いに来てくれました。そこから1週間の道のりでローマにつきました。ローマではパウロは番兵が一人つけられますが、自由に生活することが許されました
グッドパウロ、ローマで宣教する
ローマに到着して3日後に、ローマにいるユダヤ人たちを招き、民に対しても先祖の慣習にたいしても、ユダヤ人が訴えるような死罪に値するようなことは何一つしていないことを説明しました。ローマのユダヤ人たちは「あなたの信じていることをあなたの口からお聞きしたい」と言って、次に集まる日を決めました。さらに多くの人がパウロの家を訪れ、神の国の話を聞きました。ある者はパウロの話を信じましたが、他のものは信じようとはしませんでした。意見が一致しないまま立ち去ろうとする人々にパウロは「聖霊が預言者イザヤを通してお語りになったことは正しい」と言います。すなわち「ユダヤ人に告げよ。『あなた方は聞くには聞くが、決して理解しない。…だからこの神の救いは異邦人に向けられました』と。パウロは2年間ローマで宣教をします。全く自由に神の国とイエス・キリストを宣べ伝えました。

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【聖書】使徒言行録27章

使徒言行録27章・・・・・・望みが消えそうな時にも希望の光が…
「元気を出しなさい。…だれ一人として命を失う者はないのです」27.:22

くぅ〜ママのちょっと一言
パウロの無罪は明らかになったのですが、パウロ自身がローマ皇帝に上訴しているので釈放にはならず、他の囚人と共に、ローマに護送されることになります。パウロはそれが主の御心と確信していました。パウロの世話をしていた筆者のルカとテサロニケ人のアルスタルコが同行しました。
9節にある断食日と言うのは毎年9月の終わりから10月にかけて守られているもので、それを過ぎると地中海の冬の嵐が吹き荒れるため、11月11日から3月5日の航海は完全閉鎖、もう少し幅を取って9月4日から5月15日までは航海の危険な時期とされていました。案の定パウロの乗った船は嵐に遭い、難破寸前となります。そのような時パウロは神から示された希望のメッセージを伝えます。望みが消えてしまうそうな時にわずかでも希望の光を見ることができたら、どんなに嬉しいことでしょう。事態が最悪であっても、前向きに生きていくことが出来ます。クリスチャンはそんな希望の光を人々に指し示す存在です。たとえ、万策尽きた時でもクリスチャンには奥の一手があります。いや人間の力が尽きた時から働かれる(自分を開け放した時に働いてくださる)神さまの力こそが素晴らしい結果を生み出します。
私は学校関係からお招きを受けて子どもたちに話す機会が多くありますが、「生きる事はすばらしい」「あなたがうまれたことには意味がある」「あなた達が作るこれからの世の中はきっと良くなる」と、元気の出る言葉をちりばめて話をします。沢山の元気の出る言葉を聖書から頂いて、子どもたちに、また世の中に発信する者でありたいです。

聖書要約
グッドパウロ、ローマに向かって船出をする
パウロは皇帝直属部隊の百人隊長のユリウスに託され、イタリアに向かって船出することになりました。その船はアジア州の各地の港に寄港してギリシャに向かうことになっていました。(筆者のルカと)アリスタルコが同行しました。翌日停泊したシドンではユリウスの計らいで友人に会うことが許されました。そこを出港しましたが、向かい風が吹いてきたため予定の航路を変えて、ミラに入航し、イタリア行きのアレクサンドリアの舟に乗り込みました。風に行く手を阻まれて日数が思いのほか過ぎ「良い港」と言う名の港に着いた時には、既に断食日が過ぎていたので、航海には不向きな季節に入ってしまっていました。しかし「良い港」で冬を過ごすより、フェニクス港で越冬しようと舟を出そうとします。パウロは反対しましたが、大多数の意見と船主の意見が取り入れられ船出をしたのです。
グッド暴風に襲われる
折しも穏やかな南風が吹いてきたので、人々はうまく事が運ぶと思って出港しました。ところが島から吹き下ろす暴風に巻き込まれ、流されるに任せるしかありませんでした。3日目には舟具を投げ捨てて、いく日もの間、太陽も星も見えない暴風の中を漂流しました。助かる望みが消えうせようをしている時に、パウロは人々の前に立って「元気を出しなさい…一人として命を失うものはありません」と皆をはげましました。前夜、パウロは神から「必ず助かる」というメッセージが与えられていたのです。そして14日目に陸地に近づいたことが分かります。
グッド難破する
夜が明けると、どこかは分かりませんが、海岸線が見えました。神の言葉どおり、何処かの島の浜辺に乗り上げることが出来ました。兵士は囚人たちが逃げてしまう前に殺すことを百人隊長のユリウスに進言しましたが、ユリウスはパウロを助けたかったので、聞き入れませんでした。舟は壊れてしまいましたが、泳いだり、板きれなどにつかまって全員が無事で島に降り立つことが出来たのでした。

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【聖書】使徒言行録26章

使徒言行録26章・・・・・・心を開いて主を仰ぎみよう
「神が死者を復活させてくださるということを、あなた方はなぜ信じ難いとお考えになるのでしょうか」26:8

くぅ〜ママのちょっと一言
フェストゥスの着任に敬意を表す為に訪れたアグリッパ王にパウロが弁明の機会が与えられ、パウロは王がユダヤ人の生活や宗教に精通していると事を知っいると持ちかけ期待を込めて丁寧に話します。
パウロは「この人なら!」と思って、主を証しするために自分の経験を、真実を尽くして述べます。しかし王は「お前は頭が変だ」と話をそらしました。パウロの言葉を否定したら、預言者を信じないことになり、ユダヤ教徒から異端視されるし、信じるといったら、パウロの言葉を認めたことになるからです。
人にイエス・キリストを伝えることは本当に難しいと思います。「この人に伝えたい!」と思っても、その方が心を開かれなければ伝わりませんので、ほとんどの場合、口を閉ざしてしまいます。でもいつの日か「あなたの信じているものを私にも教えて」と言われた時には、私は心を尽くして話したいと思っています。中にはわずかですが、閉ざした心をこじ開けてでも知らせたいと思う人もいます。しかし実際こじ開ける事はできないので、日々祈りながら、主がその時を与えて下さるのを待つばかりです。

聖書要約
グッドパウロ、アグリッパの前で弁明する
アグリッパ王はパウロに話す機会を与えました。パウロは手を差し伸べて(ギリシャ人がするように)アグリッパ王に敬意を表してから話し始めました。「ユダヤ人の生活や宗教に精通しているあなたにお話しできることを幸いに思います。私がユダヤ人として、しかも厳格なファリサイ人として忠実に生きてきた事はユダヤ人ならだれでも知っています。私は先祖に与えられた約束の実現を待ち望んでいます。それが彼らは気に入らないのです。死人の復活を信じることが罪なのでしょうか。私は主イエスの復活の出来事に望みを置いていることで訴えられているのです。かつては私もイエスに属する者を迫害していました。聖なるものを投獄し、死刑になることに賛成し、クリスチャンに神を冒涜する言葉を強制するためには手段を選ばず、遠く外国まで迫害の手を伸ばしました。
グッドパウロ、自分の回心を語る
私が祭司長からの権限を委任されてダマスコに向かう途中、天から太陽より明るい光がさし、声が聞こえたのです『サウル、サウル、なぜわたしを迫害するのか。私はあなたが迫害しているイエスである。私があなたに姿を現わしたのは、あなたを証人とするためである。私が示すことを世界中に語り伝えなければなりません。彼らの目を開いて、罪を悔い改めさせ、サタンの闇の中から出て、神の光の中で生きるように。そして清くされた全ての人が神の相続人として生きることができるように』と。
グッドパウロの宣教の内容
「アグリッパ王、こういうわけで天から示されたとおり、ダマスコにいる人を始め、エルサレム、ユダヤ全土、そして外国人に対しても、悔い改めて神に立ち返るようにと伝えました。つまり、メシアが苦しみを受け、死者の中から復活して全ての人に光をもたらすということを語ったために捕えられたのです。
グッドパウロ、アグリッパ王に信仰を勧める
パウロの弁明をさえぎるようにフェストォスは大声でパウロに「頭がおかしい」と言います。パウロ「私は頭がおかしいわけではありません。真実で理にかなったことを話しています。またこのことはどこかの片隅で起ったことではなく、あなたもご存じのことではありませんか。しかし王は「短い時間で説き伏せるのか…」と話をそらせます。それでもなお、パウロは「私のようになってほしいと」訴えましたが、王は立ちあがり、総督たちもその場を退場しました。彼らは皇帝に上訴しなければ釈放してもらっただろうにと言いました

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【聖書】使徒言行録25章

使徒言行録25章・・・・・・窮地に追いやられても
「彼らは重い罪状をあれこれ言い立てたが、それを立証することはできなかった」25:7

くぅ〜ママのちょっと一言
前総督はパウロを2年も監禁状態にしていました。ある程度の自由さは与えられていたものの一人の人の命を簡単に拘束するということはいかにも人の命がもてあそばれているようです。パウロは「自分の命は為政者の胸三寸」という状況の中で長い年月過ごしているわけです。しかし身体は拘束されてもクリスチャンには心の自由があります。心の自由とは「主にあって、必ず人生は勝利!だ」という確信だと思います。「どんなに辛い人生でもその最後は喜びである」という確信です。この心の自由はだれも奪うことは出来ません。
新しく来たフェトゥス総督はエルサレムに上りました。新総督はまず現地住民の訴えを直接聞くという習慣があったのです。そこでユダヤ人の訴えを聞き、ようやくパウロの裁判が開かれることになったのです。パウロはそれを拒否し、皇帝に上訴しました。エルサレムでは不当に扱われることが分かっていたのです。またパウロはローマに行くことが主の御心と確信していましたので、皇帝に上訴したのです。これでフェストゥスの権限はなくなり、皇帝へ上訴の理由を書かなければならなくなりました。

聖書要約
グッドパウロ皇帝に上訴する
フェストゥスはローマ総督として着任して3日後にエルサレムに上りました。そこでユダヤ人たちは、またもやパウロのことを訴え、エルサレムに送り返すように計らってほしいと頼みました。ユダヤ人たちは移送の途中でパウロを殺そうと思っていました。フェストゥスは自分がカイサリアに帰る時一緒に来て訴えたらよいではないかと言いました。フェストゥスは8〜10日の滞在し、カイサリアに戻りました。その翌日パウロの裁判が開かれました。しかしやってきたユダヤ人がどんなに重い罪状を上げても立証は出来ませんでした。パウロも「私はユダヤ人の律法に対しても、神殿に対しても、皇帝に対しても罪を犯していない」と弁明しました。フェストゥスはユダヤ人に気に入られようとして、パウロにエルサレムに上って裁判を受けるようにいいますが、パウロはそれを拒否し、皇帝に上訴したのです。フェストゥスは陪審員に相談して、「皇帝に上訴したのだから、皇帝のもとに出頭するように」とパウロに言い渡しました。
グッドパウロ、アグリッパ王の前に引き出される
数日後アグリッパ王とその妹のベルニケがフェトゥスに敬意を表すために、カイサリアに来た時、フェストゥスはパウロのことを話しました。「前任者が囚人として残しておいたパウロと言う者がいるのですが、ユダヤ人たちは彼に有罪判決を下すように言います。私はローマの法律では裁判もしないで有罪には出来ないと答えました。それでパウロに訴える者たちの前で釈明する機会を与えました。しかし彼らの訴えているのは彼らの宗教上のことで、私には手に負えそうにもないので、エルサレムで裁判を受けることを勧めたのですが、彼は皇帝に上訴すると願い出ましたので、ローマに護送するまで牢に留置しているのです」と言うと、アグリッパ王はパウロに大変興味を示し、パウロに会うことになりました。翌日盛装したアグリッパ王とベルニケが到着し、パウロが引き出されました。フェストゥスは今までの経過を説明するのでした。

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