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【聖書】ルカ15章

ルカによる福音書15章・・・・・・失われていたものが見いだされる
「一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」ルカ15:10

くぅ〜ママのちょっと一言
3つたとえの共通の主題は「失われた者が立ち返った喜び」ということです。一人の人が神の元に立ち返るために、あらゆる犠牲をいとわない神の御心が現わされています。
しかし迷った1匹の羊のたとえを読む時に、私たちは自分を99匹の方において、「群れから離れて迷惑なこと〜仕方ないわねえ」と1匹の羊を非難しがちです。放蕩息子のたとえでは自分を兄の立場において読んでしまいがちです。わたしたちは自分は正しいと思い込んでいます。それではファリサイ派の人々や律法学者と同じです。神から遠くはなれ、神から愛される資格のない者であることに気付くことがクリスチャンの基本なのです。失われていた私が、見出され、神の子とされる資格を頂くことが出来るということが聖書が語る福音(良き知らせ)なのです
またドラクメ銀貨1枚は同時の貧しい労働者の1日の賃金ほどの価値があり、10枚そろってアクセサリーとなるので、1枚失うことは全体をだめにしてしまうことになるのだそうです。神さまの前には1人が全体であり、ひとりの持つ価値は全体と同じであるということがかかれています。
私たち一人一人は神にとってかけがえのない存在です。失われた一人が神に立ち返るように神は今日も願っておられます。かつてイエスの肩に担がれて神のもとに帰って来たように、今日もイエスに見いだされる人が一人でも多くありますように願わずにはおれません。

聖書要約
グッド「見失った羊」のたとえ
イエスの話を聞きに来る人たちの中には不正に取り立てをする取税人や、律法に照らして罪人と言われる人たちが大勢いました。ファリサイ派や律法学者たちはそれを見て不平を言いました。そこでイエスは次のようなたとえを話されました。「100匹の羊を飼っている人がいて、その1匹が荒野で迷子になってしまった。するとその人は99匹の羊をおいて、1匹が見つかるまで捜しまわるでしょう。見つけたら喜んで羊を肩に担いで帰り、友だちや近所の人に一緒に喜んでくださいと言うでしょう。このように一人の罪人が悔い改めて神に立ち返ることは、悔い改める必要のない正しい人99人にも増して天では大きな喜びなのです。」
グッド「無くした銀貨」のたとえ
女の人が10枚の銀貨の内、1枚をなくしたなら、その1枚を見つけるために念入りに探し、見つかったら、友だちや近所の人を呼んで一緒に喜んでもらうでしょう。一人の罪人が悔い改めて神のもとに立ち返った時、天では大きな喜びがあるのです。
グッド「放蕩息子」のたとえ
イエスはさらに話されました。「二人の息子の内、弟が父に『今すぐ財産を分けてほしい』と言いました。そして財産をもらった弟はそれをお金に替え、遠い所に行って放蕩の限りを尽くしました。ちょうどその頃その国に飢饉が起り、食べ物にも事欠くようになり、豚を飼う仕事につくまでになりました。豚のえさを食べたいと思うほどの状態になった時、やっと目覚め、父のもとに帰って、「お父さんごめんなさい。もうあなたの息子と呼ばれる資格はありません。どうか雇い人にしてください」と言おうと決心しました。帰って来た息子に目を留めた父は走り寄って、抱きしめて、上等の服を着せ、指輪をはめ、「死んだものと諦めていた息子が生き返った」と盛大な宴会を用意させました。畑仕事から帰って来た兄は怒って、「わたしは何年もお父さんに仕えて、言いつけに背いたことはありません」と言いました。父は兄をたしなめて言いました「わたしの物はみんなお前の物だ。しかし弟はいなくなっていたのに見つかったのだから喜ぶのは当たり前だ」と。

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