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【聖書】ローマ3章

ローマの信徒への手紙3章・・・・・・信仰による義
「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです」3:28

くぅ〜ママのちょっと一言
パウロは1章2章で偶像礼拝の罪と偽善の罪を鋭く指摘してきました。3章では神の真実と人間の罪から、律法では救われる事はないことを、ディアトリベと言われる自問自答の話法で力強く説明します。何度もディアトリベが使われています。
この章の21節は旧約聖書と新約聖書をつなぐ連結の部分です。「人間がどんなに努力しても救われる事も、義とされることもない」そんな私たちがイエスキリストを信じる信仰によって救われるという大逆転の展開を神が与えてくださったのです。私たちが義とされるのは、神から一方的に与えられることで、そう考えると誰一人誇れる人はいません。行いによって得られる義ではなく、信仰による義なのです。

聖書要約
では「ユダヤ人の優れた点は何でしょう、割礼に利点はあるでしょうか」。もちろんあります。まず神はユダヤ人に神の言葉を託されたのですから。では「彼らの中に不誠実な者がいたら、神の誠実が無になるのですか」「いいえ、どんなに人間が罪を犯しても罪を告白した時正しいものとされ、断裁されることはありません」人間の不誠実がどんなに大きくてもそれを覆うほど神の人間に対する誠実は大きいのです。人間が悪いことをしても、神は真実に人間を愛してくださるというのです。では「人間が不義を犯せば犯すほど、神の義の大きさが明らかになるのですか。怒りを発する神は正しくないのですか」「いいえ、善が生じる為に悪をしようというのは間違っています」すなわち神の愛を知ろうとして悪を犯すのは間違っているということです。
グッド正しい者は一人もいない
ユダヤ人もギリシャ人も人類は皆罪人です。旧約聖書にも「正しい者は一人もいない。…」と書かれています。彼らは神の律法を守る責任があるのに守らないので、神の裁きが彼らに重くのしかかっています。彼らだけでなく、全世界が全能の神の前に有罪の宣告を受けているのです。「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」と。
グッド信仰による義
しかし今や、神は私たちの罪が赦され、天国に行く道を示して下さいました。それは善人になるとか、律法を守るために努力することではありません。実はその道は旧約聖書にすでに書かれていることです。すなわち神は「あなた方がイエス・キリストを信じるなら、わたしはあなたたちを受け入れ、罪のない者とする」と言われました。全ての人は罪を犯したので、神に近づくことはできなくなっていましたが、ただ、キリスト・イエスの十字架の贖い(私たちの罪の身代わりとして十字架に架かられた)を通して、私たちは無代価で神に近付ける者(義)とされるのです。では私たちが義とされ、救われるために何か誇れるようなことをしたのでしょうか。いいえ、私たちは自分の善行によって無罪とされるのではありません。それはキリストがしてくださったことで、私たちはそのキリストを信じる信仰によってのみ罪が赦されるのです。神はユダヤ人にも、それ以外の人にも、割礼のある人にも、全ての人を信仰によって義として下さるのです。では信仰が大切で、律法は不必要なものなのでしょうか。決してそうではありません。律法は罪の意識を生じさせてくれるものであり、イエスキリストの信仰へと導くものです。そうであれば信仰することによって律法の役割を完成させることになるのです。

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