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【聖書】ローマ10章

ローマの信徒への手紙10章・・・・・・万人の救いのために
「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか。」10:15

くぅ〜ママのちょっと一言
9章ではイスラエルの民が「救いは行いによる」としたため、イエスの十字架による救いを信じることが出来なかったとつまづきの石について書かれていました。10章でパウロはさらにイスラエルの不信仰を指摘し、信仰よる救いを鮮明にします。
苦行、修行は人間の傲慢なのです。知恵や努力が人生を決定するものではないのです。人生の決め手は主に委ねること!なのです。もちろん何もしなくていいというわけではありません。自分に与えられた能力に従って精一杯生きていかなければならないと思います。しかし行く方向や結果を握っておられるのは神であると認識しておくことが主に委ねる生き方だと思います。それが平安な生き方であるし、行き着くところは「神様のふところ」なのではないでしょうか。

聖書要約
兄弟たち、私は同胞イスラエルがどれほど救われることを願っているでしょう。彼らが神に対して熱心なのは分かるが、正しい知識に基づくものではありません。それは、律法を与えられた民族という自らの正しさを主張するあまり、イエスキリストによる救いを謙虚に受け止めることが出来ないのです。イエスキリストは律法による神との契約(守れば救い)を終わらせる為に来られたのです。(信じる者全てに救い)
グッド万人の救い
律法を完全に守れたなら律法によって救われるでしょうが、実際不可能です。信仰によって救われるとは次のようなことです。それは自らの知恵や努力で天まで上ろう(救われよう)としてはいけないし、キリストを復活させることができるなどと考えるような思い上がりは禁物です。神に対して真実なあり方は、イエスが救い主であり、神がイエスを死から復活させられたと信じることであり、この告白によって救われるのです。そしてイスラエル人だけではなくすべての人がこの信仰告白によって救われます。「み言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある」と申命記の30章に書かれている通りです。
ところで、救われるには信じなけらばならない、信じるには聞かなけらばならない、聞くには宣べ伝える者がいなけらばなりません。イザヤ書には「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書かれている通りです。
福音はスラエルの民にも宣べ伝えられたのですから、聞いたはずです。しかし理解しませんでした。イザヤが預言したように 神の民とは考えられていなかった異邦人や無知と思われていた異教徒が救われたのです。しかしこの事は神が、神の民と誇っていたイスラエルの民に怒りを誘発させることによって、自らの不信仰を反省させ、奮起して神の本当の意味での救い、福音に預からせたたいという神の願いがあったからでした。「反抗する民に、一日中手を差し伸べた」というイザヤが述べている通りです。

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【聖書】ローマ9章

ローマの信徒への手紙9章・・・・・・選びの主権は神に
「自由な神の選びによる神の計画が人の行いにはよらず、お召しになる方によって進められるためでした。」9:12

くぅ〜ママのちょっと一言
同胞の為ならキリストから引き離されてもいいというほど、イスラエルの民が滅びることをパウロは憂いました。もともと神に選ばれたイスラエルの民は神の子としての約束を頂いた民という霊的特質を持ち、多くの国民の父アブラハムを輩出し、キリストも肉においてはこの民から出たという歴史的な特質があります。しかし神の選びの主権は自由なのです。
クリスチャンは神の国に迎え入れられる特権をあたえられ、神の子とされたのですが、それは何か特別の資格があったからではなく、功績があったからでもなく、ただただ神の憐れみによるのです。資格もないのに選んで頂いたのですから、選んでくださった神の心、聖書の言葉に応えて生きていかねばならなりません。では選ばれなかった人はどうなるのでしょう。それはわたしたちの領域ではありません。9章に書かれているとおりです。ただ、言えることは、全ての人が救われることが御心であるということです。神は「全人類に福音を伝えなさい」と大宣教命令を出されていますから。

聖書要約
グッドイスラエルの選び
これから語ることは真実であって、決してうそいつわりはありません。同胞のユダヤ人のみなさんが救われる為ならこの身はキリストから引き離されてもよいとさえ思っています。神はユダヤ人であるあなたたちに神の子としての身分を与えられました。契約の律法もキリストご自身もあなたたちの同胞としてお生まれになりました。このキリストが今や全てを支配しておられます。ところでユダヤ人に与えられた神の律法による約束は無効になってしまったわけではありません。そもそもユダヤ人として生まれた者が全て真の意味で神に選ばれた者とは言えないのです。
アブラハムには女奴隷から生まれたイシュマエルと正妻サラから生まれたイサクがいますが、イサクは神からの約束の子ですが、イシュマエルは人間的な手段で生まれた子です。また、そのイサクの妻リベカからは双子の兄弟が生まれますが、神はヤコブを選ばれました。なぜという疑問が沸き起こります。神に不義があるのでしょうか。決してそうではありません。なぜなら、神はだれにも束縛されず、憐れみたいと思うものを憐れみ、愛しみたいと思うものを愛するのです。これは神が絶対者であるということにほかありません。出エジプトの時にファラオの心をかたくなにされたのも神なのです。
グッド神の怒りと憐れみ
あなた方は「人が悪を行ったとしても神がそのように定められたのだったら人間のせいではないではない」というかもしれません。しかし陶器師である神がお造りになった作品である私たちが「どうしてわたしをこのように造ったのか」とは言えません。人間は罪ゆえに完全に滅びるような怒りの器でしたが、主は寛大な心で耐え忍ばれ、憐れみの器として、神の栄光を満ち溢れさせてくださるのです。それはユダヤ人からだけでなく、異邦人に対しても期待しておられるのです。そのことをホセア書に書かれています。背信のイスラエルに対して神の絶対なる愛を。またイザヤ書から捕囚の歴史の中から、わずかな民を残され、救いを成就された神の愛が書かれています。
グッドイスラエルと福音
イスラエルの民は民族特権や歴史的な特権を誇り、また律法を行いによって達成しようとしたため、イエスキリストの信じることによって救われると言う福音が理解できず、十字架につけてしまったのです。イザヤ書に預言されているように、つまづきの石につまづいたのです。

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【聖書】ローマ8章

ローマの信徒への手紙8章・・・・・・万事が益となる
「神を愛する者たち、つまりご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くことを、わたしたちは知っています」8:28

くぅ〜ママのちょっと一言
この章は聖書の中でも最も偉大な章の一つと言われているとのこと。「キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」から始まり、「他のどんな被造物も、わたしたちの主イエス・キリストによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」と言う言葉で締めくくられ、キリストにある命に敗退はないと、パウロの力強く語ります。とは言え、現実と希望にはギャップがありますが、主によって、必ず栄光へと導かれるという確信をもって生きていくところに、主の力が働かれます。私たちは日々の生活の中で、外的な戦い、内的な戦いがありますが、主が共に戦ってくださるのですから、怖気づかず、勇気をもって、私らしく、そして主の喜ばれるように生きてきましょう。

聖書要約
グッド霊による命
イエスキリストにつながっている者は罪に定められる事はありません。なぜなら「キリストによって命をもたらす霊の法則が、罪と死の法則からあなたを解放されたからです。律法を守って神に従っていくということが出来なかった私たちの罪を、神が御子イエスキリストをお遣わしになり、私たちの罪のいけにえとなることによって、私たちの罪を取り除いて下さったのです。神に敵対し、神に喜ばれない、キリストに属していないという肉の思いは死であり、聖霊に従って歩む、霊の思いは命と平和が与えられます。神の霊が宿っている限り霊の支配下にいるので、私たちの体は死んでも霊は生きるのです。その日には病気になることも死ぬこともない体を頂くことができるのです。そのために、私たちは古い罪の生き方を打ち砕き、霊に導かれて生きなければなりません。そのように生きる者はだれでも神の子どもなのです。霊によって神を父を呼ぶことができるようになるのです。それだけではなく、死から復活されたキリストがあなたの内に宿っているのだから、死んだ体まで生かされ、神の子、神の相続人となることができます。キリストと共に苦しみを受けるならなら、キリスト共に栄光も受けることができるのです。
グッド将来の栄光
私たちは今、味わっている苦しみは将来与えられる栄光に比べると取るに足らないものです。神がお造りになった全てのものは、やがて神の子どもたちが罪の呪いから解放されて、神の栄光にあずかり、復活する日を忍耐を持って待っているのです。それも被造物全てがうめきながら待ち望んでいるのです。被造物だけではなく、クリスチャンも完全に罪から解放され神の子とされることを呻きながら待ち望んでいます。キリスト者は必ず解放されるという希望によって救われているのです。その希望は今見えないことに対する希望なので、忍耐して、自分の中にある罪と戦いながら、待ち望むのです。しかしその戦いは孤独な戦いではなく、弱い私たちを助けて、取りなして下さる霊の力が注がれているのです。「神を愛する者たち、つまりご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くことを、わたしたちは知っています」と。神はあらかじめ定めた者に栄光をお与えになるのです。
グッド神の愛
神は苦難の戦いの中にある私たちの側について下さいます。そんな私たちに敵対する者などあるはずがありません。訴える者があったとしても神が義としてくださいます。もし艱難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣などで苦しみを受けようとも、私たちをキリストの愛から引き離すことができません。旧約聖書に書いてあるように、一日中死にさらされ、屠られる羊のような厳しい状況にあってもキリスト者はキリストによって圧倒的な勝利を得ているのです。何を持ってしても、私たちをイエスキリストの愛から引き離す事はできません。

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【聖書】ローマ7章

ローマの信徒への手紙7章・・・・・・罪の支配から解き放たれて
「自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです」7:15

くぅ〜ママのちょっと一言
私たちを罪人としてあやつる糸は切られても、人間の内は罪の法則があるのです。そんな善を行おうとしても行えない惨めな私たち…糸が切られて自由になっても、背中に背負った罪の重みで私たちは動けない状態でした。生きていれば益々、罪の上に罪が重なっていって、重みは増すばかりでしょう。その私の背中の重荷、罪を取り除いて、自分の背中に背負い、そのまま十字架に架かって、その罪を清算してくださった方がイエスキリストなのです。

聖書要約
グッド結婚の比喩
キリストを信じている皆さん、律法は人が生きている間しか拘束力がないことを知らないのですか。結婚した女性は夫が生存中は律法によって夫に束縛されていますが、夫がこの世を去れば、自由です。夫が生存中に他の男性と結婚するのは姦淫罪ですが。夫がこの世を去れば自由に結婚することができます。それと同様に、かつてあなた方が律法を夫として従っていましたが、キリストを信じることによって、キリストと共に十字架で死んだのですから、律法との婚姻関係は解消されました。律法に対して死んだので、律法の拘束力はないのです。キリストの復活と共に新しい人となったのです。それは神のために実を結ぶようになるためです。私たちが肉の欲望に従って生きる時は死に至る実を結んでいましたが、しかしもう律法に支配されることはありません。そして文字に機械的に従う古い生き方(律法に従う生き方)ではなく、心から喜んで霊に従う新しい生き方をしましょう。
グッド内在する罪の問題
では律法そのものが罪なのでしょうか。決してそうではありません。律法そのものがわるいのではなく、律法があるから罪の自覚が生まれるのです。律法そのものが罪なのではなく、人間のうちに生きて働く罪が問題なのです。その罪は律法に背いている行為そのものです。私自身の内にある本質的な問題は「自分が望むことを実行せず、帰って憎んでいることをする…」という罪なのです。
この二人の自分は、一方では神の支配を喜んでいるのですが、一方では罪の法則のとりこになっています。なんとみじめな存在なのでしょうか。
死に定められたこの体をだれが救ってくださるのは、主イエスキリストの他におられません

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【聖書】ローマ6章

ローマの信徒への手紙6章・・・・・・罪の支払う報酬
「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです」6:23

くぅ〜ママのちょっと一言
クリスチャンとはイエス・キリストと霊的に一体とされた者であり、罪から解放され、新しい命に生きる存在です。そのことをパウロは3つのたとえから説明します。1つはバプテスマのたとえから、2つ目は奴隷のたとえから、3つ目は婚姻のたとえから語られています。(3つ目は7章に書かれています)バプテスマを受けて罪の支配から自由になるということは、こんなふうに想像すると分かりやすいかもしれません。罪の操り人形だったのが、バプテスマを受けることで、その糸が全部切れて自由な身になります。そこは神さまが支配される場所なのです。そこでは神様が喜ばれる生き方が、私の喜びとなります。神様の支配は罪の支配のようにあやつり人形のように糸でつながれません。自由なのです。自由だからまた、以前のように罪を犯してしまうときもあります。でも神様の前に悔い改める自由も与えられています。罪の糸で縛られていないということは、永遠の命を頂いているということ。天国に行く時に、罪の糸で引っ張られて行けない…なんてこともないのかもしれません。

聖書要約
グッド罪に死に、キリストに生きる
「罪の増したところには、恵はなお一層満ち溢れるなら、恵みを多く受けるために罪の中に留まり続ける方がよいのでしょうか。そんなことは決してありません。クリスチャンはバプテスマを受けてキリストイエスとつながった時にあなた方の中にある罪の支配力は無効になってしまったのです。あなた方の古い邪悪な欲望はキリスト共に十字架につけられました。そしてイエスの復活されたのと同じように私たちも新しい命を頂いたのです。バプテスマは罪の中にいる自分がイエスとともに死に、新しい命を頂いて、キリストイエスと結ばれて、神に対面して生きるということです。だから、自分の身体を罪から離れさせて、良いことをする為の道具として神にささげなさい。バプテスマを受けたものは律法の支配ではなく、恵の下にいるのです。
グッド義の奴隷
では恵の下にいるなら、罪を犯していいのでしょうか。決してそうではありません。罪の奴隷として生きるか、神の奴隷として生きるかどちらかなのです。奴隷であるか自由の身であるかではなく、何に対して奴隷なのか(何に従うのか)ということが問題なのです。あなた方はかつては罪の奴隷でしたが、今は罪から解放されて、神の教えに心から従う者になりました。そして罪に従う奴隷は死にいたり、神に従順に仕えて生きる事は義にいたるのです。「義に対して自由な時(罪の支配下にいる時)はあなたはどのような実を結んだでしょうか。恥ずかしいと思うような実しか結ばなかったのではないでしょうか。その行き着くところは死です。一方、神の奴隷として生きるとき私たちは聖なる実を結ぶのことができ、その行き着くところは永遠の命です。罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。

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【聖書】ローマ5章

ローマの信徒への手紙5章・・・・・・罪と救い
「しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません」5:15

くぅ〜ママのちょっと一言
パウロは信仰義認の結果、与えられる神との間の平和と、神の栄光にあずかる希望について述べています。希望そのものだけではなく、苦難な状態をも希望なのだといいます。苦難は忍耐を生み出すと書かれています。忍耐とはジーっと歯を食いしばり、不動でがんばっているイメージを描きやすいのですが、そうではなく、神さまが与えてくださる恵の約束を信じて、辛さを乗り越えて積極的に生きていく姿勢です。そのことが素晴らしい人格を形成していくことになります。それがまた希望につながっていくというのです
後半はアダムとキリストが対比されて語られています。アダム(罪、死、裁き、有罪、不従順)キリスト(義、永遠の命、恵、無罪、従順)キリストは第2のアダムと言われますが、第1のアダムは人類に罪と永遠の死をもたらしましたが、第2のアダムは人類に恵と永遠の命を与えてくださいました。このことを、パウロは表現を変えながら私たちに繰り返し訴えます。私たちを友と呼んでくださるキリストの愛の中にいることを感じながら、軽い足取りの日も、一歩踏み出すのがやっとというような重い足取りの日も、神さまが私の人生を握っておられることを信じて、前進していきましょう。

聖書要約
グッド信仰によって義とされて
信仰によって義と認められた私たちは主イエス・キリストによって神との間に平和を得ています。そればかりか神の栄光にあずかる希望を誇りとすることができます。希望ばかりではありません。苦難をも誇りとすることができます。なぜなら苦難な状態であっても、信仰によって忍耐しながら前向きに生きていくことによって、練られた品性、豊かな人格へと自分自身を高めてくれる。その練られた品性に裏づけされた希望を頂くことが出来るのです。ですからどんなことが起ろうとも、失望せず落胆することはありません。なぜならそのように生きている者には、神の愛(聖霊)があふれるばかりにふりそそがれているからです。
キリストは私たちがまだ弱く、罪の中にいた時に私のために死んでくださり、神の愛を示してくださいました。罪ある私たちを無罪と宣言してくださったのです。罪の中にいた時にもこんなに素晴らしいことを私たちに与えて下さったのですから、無罪と宣言してくださった今はもっと良い物を与えて下さいます。私たちに救いの道をあたえて下さり、キリストは私たちを友と呼んで下さるのです。
グッドアダムとキリスト
一人の人・アダムの罪は人類に罪と死をもたらしました。モーセに律法が与えられるまでは、罪は罪とみとめられなかったのですが、死は全ての人を支配しました。しかし一人の人、イエス・キリストの十字架の死は人類全てに義と救いをもたらしました。アダムの一つの違反によって人類は死に支配されるようになりましたが、キリストの義によって人類はいのちを与えられたのです。
アダムとキリストは人類の罪と義をもたらしたのですが、キリストの義は罪とは比較にならないほど優勢なのです。理由として、一つの罪で有罪判決を受けたのに、神の恵みは多くの罪を全て無罪にすることができます。
アダムから律法が与えられたモーセまでにも罪はありました。しかし律法が与えられることによって益々罪を自覚されることが増えたのです。でも大丈夫!罪が増せば増すほど、恵みも増します。罪によって死が支配していましたが、イエスキリストの圧倒的な恵と力によって、私たちは永遠の命を頂くことができるのです。

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【聖書】ローマ4章

ローマの信徒への手紙4章・・・・・・アブラハムの信仰
「アブラハムは神を信じた。それが、神の義と認められた」4:3

くぅ〜ママのちょっと一言
人が義とされるのは律法を守ることによってではなく、イエス キリストの十字架と復活を信じる信仰によるものであるという「信仰義認」の考えを表したパウロは4章でアブラハムの信仰について語ります。アブラハムに神が約束されたことは、まったく不可能と思われるようなことでした。しかしアブラハムが信じたので神はアブラハムを「よし」として祝福されました。現代の私たちにとっては「イエスの処女降誕など理解できない。十字架と復活など意味の分からない」ことかもしれませんが、それを「ただ信じなさい。」ということなのだと思うのです。見えないものを信じること、納得できないことを信じるからこそ信仰と言えるかもしれません。信じて生きるも人生、信じずに生きるのも人生。選択をそれぞれ一人ひとりに任されているのです。

聖書要約
グッドアブラハムの模範
信仰によって救われるという問題について、私たちの始祖アブラハムの信仰を通して考えてみましょう。彼が神に受け入れられたのは良いことをしたからでしょうか。もしそうなら、彼は自分のことを誇ったでしょう。しかし神の側から見ると、アブラハムには誇れる理由などありません。アブラハムは神を信じたから、神が彼を義と認めれらたのです。働いた時に得るのは報酬ですが、働かずに得るのは恵みです。ダビデも救われる値打ちのない罪人が罪のない者とされる幸いについて「罪をすっかり消し去られた者、主の罪を数えられない者は何と幸いでしょう」と語っています。ではこの幸いは割礼をうけた者に与えられるのでしょうか。割礼のない者にも与えられるのでしょうか。アブラハムは割礼を受ける前に信仰によって義とされました。義とされた印として割礼を受けたのです。彼は割礼を受けずに信じた者にとっても、割礼を受けてアブラハムに従う者にとっても私たちの父なのです。
グッド信仰による実現される約束
神はアブラハムに子孫に世界を継がせると約束されました。神の祝福の約束を受け継ぐのは律法を守る者ではなく、神を信じることによって義と認められた者です。律法は神の怒りを招くものです。すなわち律法によって人間の罪が明らかにされるだけです。神がアブラハムに与えられた祝福の約束はイエスキリストを信じる全ての者に与えられます。アブラハムは死者を復活させる神を信じました。神はあなたを多くの国民の父とすると定められました。しかしその時彼は100歳、妻のサラも子どもを宿せる体ではありませんでした、アブラハムは希望するすべもないような状態でしたが、なお神の言葉に望みをおき続けました。アブラハムの信仰は弱まることがなく、益々信仰は強まりました。そのこのように神の約束を信じ抜いたから、彼は義と認められたのです。それは私たちにも当てはめることができます。主イエスを死者の中から復活させられた方を信じることで私たちも義とされるのです。イエスは私たちの罪のために十字架にお架かりになり、私たちの罪のために死に渡されました。そして私たちが義とされるために復活されたのです。

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【聖書】ローマ3章

ローマの信徒への手紙3章・・・・・・信仰による義
「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです」3:28

くぅ〜ママのちょっと一言
パウロは1章2章で偶像礼拝の罪と偽善の罪を鋭く指摘してきました。3章では神の真実と人間の罪から、律法では救われる事はないことを、ディアトリベと言われる自問自答の話法で力強く説明します。何度もディアトリベが使われています。
この章の21節は旧約聖書と新約聖書をつなぐ連結の部分です。「人間がどんなに努力しても救われる事も、義とされることもない」そんな私たちがイエスキリストを信じる信仰によって救われるという大逆転の展開を神が与えてくださったのです。私たちが義とされるのは、神から一方的に与えられることで、そう考えると誰一人誇れる人はいません。行いによって得られる義ではなく、信仰による義なのです。

聖書要約
では「ユダヤ人の優れた点は何でしょう、割礼に利点はあるでしょうか」。もちろんあります。まず神はユダヤ人に神の言葉を託されたのですから。では「彼らの中に不誠実な者がいたら、神の誠実が無になるのですか」「いいえ、どんなに人間が罪を犯しても罪を告白した時正しいものとされ、断裁されることはありません」人間の不誠実がどんなに大きくてもそれを覆うほど神の人間に対する誠実は大きいのです。人間が悪いことをしても、神は真実に人間を愛してくださるというのです。では「人間が不義を犯せば犯すほど、神の義の大きさが明らかになるのですか。怒りを発する神は正しくないのですか」「いいえ、善が生じる為に悪をしようというのは間違っています」すなわち神の愛を知ろうとして悪を犯すのは間違っているということです。
グッド正しい者は一人もいない
ユダヤ人もギリシャ人も人類は皆罪人です。旧約聖書にも「正しい者は一人もいない。…」と書かれています。彼らは神の律法を守る責任があるのに守らないので、神の裁きが彼らに重くのしかかっています。彼らだけでなく、全世界が全能の神の前に有罪の宣告を受けているのです。「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」と。
グッド信仰による義
しかし今や、神は私たちの罪が赦され、天国に行く道を示して下さいました。それは善人になるとか、律法を守るために努力することではありません。実はその道は旧約聖書にすでに書かれていることです。すなわち神は「あなた方がイエス・キリストを信じるなら、わたしはあなたたちを受け入れ、罪のない者とする」と言われました。全ての人は罪を犯したので、神に近づくことはできなくなっていましたが、ただ、キリスト・イエスの十字架の贖い(私たちの罪の身代わりとして十字架に架かられた)を通して、私たちは無代価で神に近付ける者(義)とされるのです。では私たちが義とされ、救われるために何か誇れるようなことをしたのでしょうか。いいえ、私たちは自分の善行によって無罪とされるのではありません。それはキリストがしてくださったことで、私たちはそのキリストを信じる信仰によってのみ罪が赦されるのです。神はユダヤ人にも、それ以外の人にも、割礼のある人にも、全ての人を信仰によって義として下さるのです。では信仰が大切で、律法は不必要なものなのでしょうか。決してそうではありません。律法は罪の意識を生じさせてくれるものであり、イエスキリストの信仰へと導くものです。そうであれば信仰することによって律法の役割を完成させることになるのです。

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【聖書】ローマ2章

ローマの信徒への手紙2章・・・・・・義とされるとは
「律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです」2:13

くぅ〜ママのちょっと一言
パウロは1章で人類の罪について鋭く指摘したのですが、2章では神の選民であるユダヤ人の心に潜む偽善の罪をえぐり出します。そして神の裁きは公平であり、モーセの律法を知っているだけでは義とされないことを明らかにします。律法を知っていることが大事なのではなく、それに従って生きているか否かが重要なのですと。
物事の本質を忘れて形骸化したものを大切にする生き方は本当に悲しいことです。律法を与えられた選民ユダヤ人のそのような罪が指摘されました。ユダヤ人だけではなく、私たちクリスチャンもそのような間違いに陥らないようにしなければなりません。日曜日の礼拝を一生懸命守ったとしても、主を求める心が伴っていなければどうでしょう。お祈りでも然りです。奉仕も献金もその心が問われます。傲慢な心を捨て、へりくだって、いつも心から主に仕えたいと思います。

聖書要約
グッド神の正しい裁き
人類の罪をこのように(1章)列挙すると、あなたは「なんて、ひどいことを…」と言うでしょう。しかしあなただって、そのような罪がないとは言えません。「そんな悪いことをする人は罰を受けるのは当然だ」というかもしれませんが、あなただって同じことをしています。そのような人たちを神は正義を持って罰せられます。あなたが裁かれていないのは、神の憐れみであり、それはあなたを悔い改めに導くためのものです。ところがあなたは罪をドンンドン積み上げています。神の裁きが下される怒りの日に神はそれぞれの行いによって報いをお与えになるのです。忍耐強く神の喜ばれることを行い、神が与えようとしておられる栄光と栄誉と永遠の命を求める者にはそれが与えられるのです。けれど、神の真理に逆らい、不正な道を歩む者には恐ろしい罰が下ります。罪を犯し続ける者にはユダヤ人にも外国人にも同じように苦しみと悩みが降りかかります。反対に神に従う者にはだれであっても神からの栄光と平安が与えられます。神は全ての人を公平に扱われるのです。神はどんな罪も罰せられます。外国人で律法を知らないで罪を犯しても律法とは関係なく滅びます。律法を知っている者が罪を犯したら、律法によって裁かれます。律法を聞く者が正しいのではなく、律法を行う者が正しいのです。律法を知らない外国人も律法を自然と行うことができます。神が人の心に律法を記されたのです。ユダヤ人は神の掟を知っています。どちらにしても成すべきことを知っていながら実行しない人は救われないのです。すべての人の心の奥に潜む思いを、イエス・キリストが裁かれる日に明らかにされます。
グッドユダヤ人と律法
ユダヤ人は選ばれた民と誇っています。神が何を求めておられるか知っているので、自分たちは人を導くことができると思い、実際そうしています。しかし律法の教えを人に説きながら、自分はそれに従っていません。盗むなと説きながら盗み、姦淫するなと教えながら姦淫し、偶像を忌み嫌いながら、神殿を荒らしています。「あなたたちのしたことで、世の人々は神をけなす」と旧約聖書に書いてある通りです。割礼をしても律法を守らなければ、何の意味もありません。神と正しい関係が持ててこそ、真のユダヤ人であり、割礼をうけたかどうかではなく、心と思いの全てが変えられた人こそ神から褒めて頂けるのです。

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【聖書】ローマ1章

ローマの信徒への手紙1章・・・・・・神の力=デユミナス
「私は福音を恥としません」1:16

くぅ〜ママのちょっと一言
この手紙はパウロが書いたものである事はほぼ間違いありません。書いた場所はおそらくコリント。ローマに行くのを切望していたパウロですが、自分の思いとは違って、献金を携えてエルサレムに赴くことになりました。そんな中、ローマに行く信徒がいることを聞き、手紙を託したのが、この書簡とのこと。ローマにはキリスト教の幾つかのグループが存在していたようで、この手紙は回状用の公的なものとして書かれているとのことです。
私は福音を恥としない」とパウロは言います。なぜ「恥としない」と断言できるようになったのか。それは16節の「神の力」を体得したからということです。信じる者に、確かに働いてくださる神の力。この「力」はギリシャ語のデユミナスが使われており、ダイナマイトの語源です。爆発的な神の力で生きることをパウロは見出したのです。
本論ではパウロは「神の義」を明らかにする為に「罪」について述べるのですが、その前にまず「神の怒り」について知らせます。主の怒りの一番の理由は「神を知りながら、神をあがめることも感謝することもせず…」という罪です。これが罪の根源であり、中でも決定的な罪である偶像礼拝を指摘します。そして神との関係が途切れた人類が犯す罪が列挙されます。同性愛のことを始め、21の罪が書かれています。それらの罪によって人間は神の怒りによっ滅ぼされても仕方のない存在であるとパウロは言います。

聖書要約
グッド挨拶
キリスト・イエスの僕、伝道者として選ばれ、福音を伝えるために遣わされた私、パウロからの手紙です。福音とはずっと以前から神が預言者を通して聖書の中で約束して下さっていた、御子イエス・キリストに関することです。この方は人の子としてダビデの家系に生まれましたが、死んだ後、復活されることによって、神の聖い性質を持たれた神の御子であることが証明されました。キリストをとおして今や、神の恵みがユダヤ人だけではなく、世界の人々にあふれています。神に愛されているローマの人々にイエス・キリストからの恵みと平和があるように。
グッドローマ訪問の願い
あなた方の信仰が世界中に知れ渡っていることを聞き、主に感謝します。私は御子に関する良い知らせを人々に伝えながら、主に仕える者です。主が許して下さって、あなた方のところに行ける機会があるようにと願っています。それはあなた方と信仰を分かち合いたいということと、あなた方の教会が主にあって、成長するように役立ちたいと思っているからです。これまで何度もあなた方の所に行こうとしましたが、妨害にあって、行くことができませんでした。私はあらゆる人に福音を伝えると言う責任があります。ローマのみなさんにも是非福音を伝えたいのです。
グッド福音の力
私は福音を恥としません。福音は信じる人がだれでも天国に導く神の力となるからです。ユダヤ人だけでなく、ギリシャ人も信じる人ならだれでもです。
グッド人類の罪
しかし神は真理を妨げる人々に怒りを発せられます。彼らは神のお造りになったものを見ることによって、神の創造と力を知ることができたはずです。神を知りながら、感謝せず、神の御心から遠く離れた愚かなことばかりをし、また滅びるような人間や、鳥や獣、蛇を木や石で作り、それを神としたのです。だから神は彼らが、性的な欲望のまま、したい放題にさせられました。その結果当然その報いを受けているのです。彼らがこのように神を捨てたので、神は考えられる限りの悪事をさせておかれました。彼らの生活は、憎しみ、ねたみ、殺意、争い、偽り、陰口に満ちています。彼らは神を憎み、横柄で、高慢で、大うそつきで、親に反応し、わざと物ごとを曲解し、平気で約束を破り、情け知らずの、不親切な者となりました。このような行為は死にあたいするという神の定めを知りながら、自分だけでなく、他人も引きずり込んでいるのです。

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